顕彰碑(ベルツ博士・マルチィーノ公使)

顕彰碑(ベルツ博士・マルチィーノ公使)

種別 建造物(石造)

指定年月日 昭和49年4月15日

所在地 葉山町堀内(森戸大明神)

規模 高さ213cm

時代 昭和11年(1936年)

概要

ドイツ人のエルウィン・フォン・ベルツ博士は、明治9年(1876年)26歳の時、日本政府の招へいを受け、官立東京医学校教師として来日しました。明治19年東京大学医学部が帝国大学医科大学と改称された頃、博士は同行の内科と産婦人科を担当されました。博士はアイヌ研究や日本人の食生活や衣服の問題、日本におけるスポーツなどについても研究したほか、蒙古斑の発見、公衆衛生と治療医学、防疫事業など、その業績は多岐にわたります。また、日本の温泉についても研究し、温泉療法の奨励や改良にも力を尽くされました。特に草津温泉の効用を海外にまで紹介されたことから、草津公園には博士の記念碑が建てられています。

東大を退官後、博士は皇室の侍医として3年間日本に留まり、以来明治38年までの29年間日本に滞在します。明治26年に堀内に土地を買って住み、明治37年に土地家屋を売って葉山を去ったとされていましたが、ベルツ博士の門下生であった入澤達吉博士の日記によれば明治22年には葉山に別荘を持っていたとのことです。

マルチィーノ公使はイタリアの日本駐在公使で、明治17年に来日して、明治27年転勤のため日本を離れるまで10年間在日しました。ベルツ博士と親交があり、葉山には別業を設けた程で、葉山住民との交遊もありました。

明治20年にマルチィーノ公使が、葉山は避暑避寒に適していることを唱道されると、ベルツ博士は直ちにこれに賛同し、両人とも日本人の間に宣伝されたので、御用邸が葉山へ置かれることになりました。そのため葉山には政界・財界の有力者が競って別荘を建てたことから、寒村だった葉山は開け、日本で有数の避暑避寒地となって脚光を浴びました。

ベルツ博士の門下生であった入澤博士は、両氏の業績を永く後世に残すため、森戸大明神境内の最も良い位置に碑を建てられました。除幕式は昭和11年4月、ベルツ博士夫人荒井はつ(花)氏を迎えて行われました。

顕彰碑碑文

顕彰碑碑文

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更新日:2024年03月13日